忍耐と我慢は混同されてしまいがちだ。
同じように辛い、しんどい、苦しい時でもそれが忍耐なのか我慢なのかは状況によって違うもの。
我慢することを美徳として、やりたいことを犠牲にしてしまうのは人生の無駄使いになる。
やりたいことを成し遂げるために忍耐をするのは成功のために欠かせないことだ。
そして何が忍耐と呼ぶべきものなのか、何が我慢と呼ぶべきものなのかを正しく認識が出来ていなければ、必要のない時にこれは忍耐なんだと思い込んで我慢をしてしまう。
そんな勘違いを生んで人生を無駄遣いしてしまわないように、忍耐とは何なのか、我慢とは何なのかを考えてみよう。
忍耐は自分のため
忍耐とは辛い、しんどい、苦しいことを耐えること、という我慢と似た意味合いではあるがその心の持ちようは全く違うものである。
その忍耐と我慢の違いとは、忍耐は自分のためにするものだと言える。
自分の夢や目標に向かって何か行動をしていても、なかなか成果に結びつかなかったり、上手くいかなかったり、時間がかかってしまったりする。
そんな時に諦めずに夢や目標に向かい行動を重ね続けるようなことが忍耐なんだ。
自分の成し遂げたいことに向かって行動する際に生まれる辛さや、しんどさ、苦しさに耐えてひたすらにゴールを目指す力が忍耐力だ。
自分のやりたいことに付随して生まれる逆境を受け入れる力とも言えるだろう。
我慢は他人のため
我慢することは同じ辛さや、しんどさや、苦しさがあったとしても意味合いが変わる。
他人のために発生する逆境に耐えることは我慢と言えるだろう。
たとえば誰かの主張を聞き入れて自分の意思を曲げなければならない辛さ、やりたくないことを仕方なしにやらざるを得ないしんどさ、きみ自身がないがしろにされてしまう苦しさ。
これを耐えることが我慢なんだ。
これらを耐えて受け入れたとしても、きみの人生にとって何かいい影響を与えることはないだろう。
これらは全て他人のためであって、直接的にきみのためになるようなことではない。
こういった我慢に費やす労力は、きみが忍耐に費やすべきエネルギーを奪ってしまう。
他人に振り回されずに自分の軸を持って生きるためには、このような我慢に労力を使うべきではないんだ。
我慢はいらない忍耐は必要
我慢と忍耐を勘違いして、やりたくないことまでやることはない。
我慢に慣れてしまえば他人から都合よく使われることが日常化してしまい、純粋にきみ自身のために生きる方法すら忘れてしまうだろう。
そして結果的に自分のやりたいことから遠ざかっていってしまう。
きみが我慢することが都合のいい人は、きみが我慢することで褒めてくれるだろう。
その方が相手にとって都合がいいんだから当然のことだ。
我慢することが素晴らしいと洗脳されてしまって、他人のために生きることはもうやめよう。
きみにはきみの生き方や意思があるはずだ。
他人に構うのに忙しすぎて、ただ単にそれを忘れてしまっているだけなんだ。
だから他人のために我慢することはない。
自分のために忍耐することが自分の人生を貫くための方法なんだから。
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